Masuk森での調査が一段落したその夜、祐真は宿舎のベッドに横たわっていた。
しかし眠気は訪れず、代わりに胸を締めつけるような痛みが押し寄せてくる。 ──まただ。 目を閉じた瞬間、彼は自分の「内側」に引きずり込まれていった。 そこは暗い廊下だった。壁も天井も曖昧で、ただ濃い影と冷たい空気が広がっている。 足音が響く。 振り返ると、過去の自分が立っていた。まだ二十代前半、捜査に血走っていた頃の祐真だ。 その目には焦燥と怒りが宿っている。「お前はまた同じことを繰り返すのか?」 若い祐真が、低く問いかけてくる。 胸に鋭い棘が刺さったような痛みを覚え、祐真は言葉を失った。 ──あの事件。 守れなかった少女。救えなかった命。枝を踏む音は、確実にこちらへと近づいてきていた。 ざり、と。 湿った土を踏みしめる、鈍い音。 祐真がゆっくりと一歩前へ出て、拳銃に手をかけた。 「……誰だ。出てこい」 森は答えない。 代わりに、音だけがゆっくりと距離を縮めてくる。 ざり、ざり。 美奈が春香の腕をぎゅっと掴んだ。 「来てる……近い……」 主人公は祐真の肩越しに闇を凝視した。 ランタンの光が届くぎりぎりの距離。だが、そこには“何もない”。 ──いや、“見えないだけ”だ。 足音は確かに存在している。 だが、それを生み出しているはずの“体”が、どうしても視界に映らない。 次の瞬間、春香が小さく悲鳴を上げた。 「……っ!」 彼女の足元。 落ち葉の上に、くっきりと“足跡”が浮かび上がったのだ。 誰も踏んでいない。 それなのに、まるで“そこに透明な誰かが立っている”かのように、葉が沈み込んでいる。 ──もう一歩。 足跡が、ひとつ前に増えた。 美奈の喉が、ひくりと鳴る。 「……見えない人が……歩いてる……」 「下がれ!」 祐真が鋭く叫び、三人を庇うように前へ出た。 拳銃の銃口が、何も
音は、確実にこちらへ近づいてきていた。 ざり、と湿った土を踏みしめる音。 不規則で、どこか“ためらう”ような間を挟みながら、それでも止まらない。 春香は無意識のうちに一歩、皆の前へ出ていた。 「……祐真、ランタンを奥に」 小さく指示すると、祐真は頷き、光を音のする方へ向ける。 揺れる光の輪が、黒々とした木立の隙間をなぞった。 だが──何もいない。 見えるのは、絡み合う枝と、地面に張りつくように垂れた蔦だけ。 人影どころか、動くものすら見当たらない。 「……見えない」 美奈の声が、かすかに震えた。 それでも音は、さらに一歩分、距離を詰めてくる。 ざり。 ざり。 「……確かに、いる」 祐真の喉が、ごくりと鳴った。 「でも、姿が……」 春香は、両腕を抱きしめるようにして立ち尽くしていた。 視線は一点──ランタンの光の向こう、闇のさらに奥へ。 「……見えないんじゃない……」 かすれた声で、春香が言った。
湿った土の匂いが、あたり一面に濃く漂っていた。 紅葉が最後に目撃された場所──神社の裏手から続く古い山道を抜けた先。 その先に、ぽっかりと口を開いたような窪地がある。 夕陽が差さないせいか、昼間でも薄暗く、まるで“何かを隠すため”に森が影を落としているようだった。 祐真がランタンの光を向けた。 「……やっぱり、誰かが最近ここに来てるな」 足跡は雨で少し滲んでいたが、人の靴跡であることは間違いなかった。 しかも、ひとつだけではない。大小がいくつも重なり合い、方向も一定しない。 まるで、迷いながら彷徨っているように。 春香が息を呑む。 「紅葉……ここに来たの……?」 その声は震えていた。 20年前、美桜を探しに何度も同じ森に入ったときも、こんなふうに震えていたのだろうか。 春香は黙ってしゃがみ込み、地面を照らしながら手で落ち葉を払った。 その瞬間、爪先が“何か硬いもの”に触れた。 「……ん?」 落ち葉をもっと払いのけた。 土に半分埋もれるようにして、小さな銀色の金具が光った。 「これ……髪飾りの留め具じゃないか?」 祐真が覗き込む。 春香の表情が強張る。 「紅葉の……?」 主人公は即座に首
子どもの足跡が残る“裂け目”の前で、三人はしばらく動けなかった。 森は静かすぎた。 風の音すら止まり、まるで森全体が息を潜めてこちらを見ているような圧迫感があった。 美奈が腕を抱え、震える声で言う。 「……ここ、紅葉と来たことなんてない。 だけど……どうしてだろう。すごく……嫌な感じがする。 この場所、紅葉……知ってたのかな……?」 春香が、美奈の背中をそっと支えた。 「美奈ちゃん。無理に思い出さなくていいのよ。 でも……くれはは、あなたに何か言ってなかった? ここに来る理由になるようなことを」 美奈は唇を噛み締め、目を閉じた。 「……“どこかから呼ばれる夢を見た”って……たしかに言ってた。 だけど、夢の話だと思って……」 春香の表情がゆっくりと強張っていく。 「……美桜も……同じことを言ってたの。 “森の奥で、お姉ちゃんが呼んでるの”って……。 あの日、美桜は……その言葉を最後に……」 祐真は二人の会話を聞きながら、地面に視線を落とした。 その目はつねに何かを計算するように動き、ある一点で止まる。 「……誰かが掘り返した跡が、まだ続いてる。 足跡の向こう。あの木の根の下だ」 春香が息を呑んだ。 土の色が、そこだ
紅葉の部屋で見つかった紙片を春香が胸に抱きしめたまま、三人はその足で森へ向かった。 夜ではないのに、森はなぜか夕闇のように薄暗い。 木々の間を抜ける風は重たく湿っており、耳鳴りのような低いざわめきを運んでくる。 「……ここ、変わったよね。昔はもっと明るかったのに」 美奈が呟くと、春香は首を振った。 「違うわ、美奈ちゃん。変わったのは……私たちのほうよ。 紅葉がいない世界の色が、全部、暗く見えるだけ」 言葉は強くても、春香の声は震えていた。 祐真は前を歩きながら、ふと足を止めた。 「……ここだ」 美奈も春香も、祐真の視線を追った。 そこは、森の中でもとりわけ木々が密集し、 にもかかわらず ぽっかり円形に空間が開けた“裂け目”のような場所 だった。 どこか不自然に、地面だけが浅く沈み込んでいる。 「ここ……紅葉が見つかった場所じゃないよね?」美奈が不安を滲ませる。 祐真はゆっくりと首を横に振る。 「違う。紅葉の足取りは、この先で途切れてる。 でも……ここは二十年前、美桜ちゃんが最後に目撃された場所だ」 春香は息を止めた。 「……そんな……。同じ場所……?」 祐真はその沈んだ地面に膝をつき、手袋越しにそっと触れた。
紅葉が失踪した秋祭りの夜。春香の胸の奥には、あの晩のざわついた空気と、風が運んできたわずかな金木犀の匂いが、今でも鉛のように沈んでいる。 その夜、紅葉は境内の灯籠の列のそばで美奈と別れ、ひとりで家へ向かった。 ──はずだった。 「紅葉はね、最後に振り返って言ったんだよ。『また明日、話すね』って」 美奈はそう言ったあと、決まって視線を落とす。まるで、その言葉そのものが呪いのように、今も耳の奥にこびりついて離れないというように。 そして現在。 春香、美奈、祐真の三人は、紅葉の部屋に残されたわずかな“違和感”を頼りに、手がかりを探していた。 部屋の窓は内側から施錠され、荒らされた痕跡もない。 だが、美奈が指差した机の引き出しだけは、異様だった。 「ここ……少しだけ、ずれてるんです」 祐真が警官らしく慎重に引き出しを開くと、内部の布底に、ごく薄い擦れ跡が幾重にも走っていた。 ──誰かが、何度もここを触ったような跡。 「紅葉が? こんなの……知らなかった」 春香の声は震えている。 美奈は言葉を飲み込み、祐真は眉間に深い皺を寄せた。 「……これ、隠し底がありますね」 指先で押し込むと、コトリと乾いた音がして、板の一部が沈む。小さな空洞が現れ、そこには折り畳まれた紙片が一枚だけ残されていた。 祐真が慎重に開く。 書かれていたのは、震えるような細い文字。